ゆううきコラム

てくてっく

画的な文章

5年ほど前に友人が、あなたの文章は内容が「画」になって浮かんでくる、と伝えてくれた。そのときは、どちらかといえば理科系といえる自分の文章のどの要素に、友人は「画」を感じられたのだろうか。しかし、その友人らしい独特な表現は、友人が本心で伝えてくれたことを僕に感じさせた。その言葉がうれしくなって、ブログで文章を書くということに対して、自分なりに真剣に取り組むようになった。

書籍とは異なり、一般にブログという媒体は、人々がすき間の時間に気楽に読めるように書かれている。文章の量も一息で読めるようになっている。また、読者想定を書き手のみえる範囲の人々に暗黙のうちに限定することで、その人々の間だけで共有されたミームを積極的に利用しやすくなる。書き手は読み手の前提知識を意識せずに済むため、書き手の負担を小さくできる。

これはITエンジニアが書く技術ブログも同様だ。そして、技術ブログでは、流行のソフトウェアの使い方や、特定の企業でのシステム事例の紹介といったどこか刹那的で消費的な内容で溢れている。さながらポップカルチャーのようである。これはこれでソフトウェアの普及や企業のアピールといった観点では、重要なことではある。自分がそういった内容の記事を書くことももちろんあった。しかし、それは自分が書きたいものではないという違和感を拭えなかった。

その違和感の正体を突き止めるために考えたことは、僕が一番好きなブログはどんなものだったかということだ。僕は、コンピュータやソフトウェアを主題とした硬派な文章が好きだ。さらに、硬派な文章の中に、書き手の幾分かの主観的な意見が散りばめられているものが好きだ。それが分かれば、僕は僕の一番好きな文章を目指すだけだ。そうして書いたのは、2015年Webサーバアーキテクチャ序論Webシステムにおけるデータベース接続アーキテクチャ概論Mackerelを支える時系列データベース技術 といった記事である。

当時は「硬派」というのが何を指すのかおぼろげだった。ここでの硬派は、まず、一見ケースバイケースにみえる現場の知識の中から共通する要素を括りだし、パターンとして分類し、読み手が演繹的に知識を身につけられるように整理されたものを指す。つまり、刹那の間だけ消費して楽しむというよりは、長い間読まれるようなものである。もうひとつは、コンピュータそのものであったり、複数のコンピュータによって構成されたシステムのような一般の人々には見えないような基盤技術を指す。

このような自分の「好き」で書かれた文章は、エンジニアではない友人にとっては見えないはずのものを、客観的かつ演繹的に整理することで視えるようにしたのだろう。主観をあえて含めて人を感じさせたのだろう。見えないものであるから写真ではなくあくまで「画」である。演繹的かつ論理的にに導かれる様子は「画」のように誰にでも視える。主観を表現するのもまた「画」を連想するものである。

これが「画」になってみえる文章の正体だ。友人は、まだ僕にこうした意識が低く、これくらいでいいやと本気になれていなかった文章から、「画」をみつけてくれたのだった。